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白光真宏会 出版本部


日々の祈り
五井昌久 著
定価 1760円(本体1600円+税10%)送料250円
新書判
ISBN 978-4-89214-044-0
(4-89214-044-9)
365日活用できる、生きる力のエキスを満載。心迷う時、悲しい時、何かを決めようとする時、あなたの座右にあって、強い力と明るい安心を与え、真実の幸福を開く。人間生命の本源の力を湧き出させる書。
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内容紹介 (本文より一部掲載)

1月1日  人間は小宇宙である

 人間は小宇宙である。と少年の頃誰かに聞いたことをおぼえているが、今にしてなるほどと 私をうなづかせる。
 人間一人一人の歩んでいるその道に、 宇宙の影がそれぞれ宿っていることは間違いない事実である。しかし、その人間の歩みが、宇宙の心をそのまま写しているか、似て非なる写り方をしているかは、その人間の歩調の正誤により、美醜によるのである。
 その歩みが肉体だけの歩みであるか、魂の歩みであるかによる美醜は、この人生の大きな問題点になっているのである。
・・・・・
4月9日  肉体の力から神の力へ

 自己を否定したり、人類の完成を否定したりする想念は、神の力を度外視した、人間は肉体なりという立場からはうなずける考えであって、私も肉体的立場としては、全否定の立場をと っているのであります。しかし、肉体人間の力を全否定した瞬間に、神の力、神の完全性を全肯定する立場に心を切りかえてしまっているのです。
 肉体人間の力では、この世はどうにもならぬ、という否定があってはじめて、神の力に全託する世界平和の祈りが生れたのです。
 自己の力、肉体人類の力に幾分でも依存しながらの祈りでは、とても世界は平和にならないのです。何故ならば、この地上界を救おうとし働いておられる守護の神霊団体が、そうした人間や人類世界では、その力を全面的に働かせるわけにはゆかぬからです。
・・・・・
5月31日  祈りと念力は違う

 宗教心とは、宇宙の本源を知りたい心、人間の本体を知りたい心、真理の姿を知りたい心なのです。そうした心の動きが祈りとなるのです。
 祈りは自己の想念の力をすっかり神様におかえしして、お任かせして、空になってしまった心境であり、念力は、自己の想念の力を他に働きかけて、自己の思い通りに相手を動かそうと する心であり、執着する心、把われの心であります。
    *
 念力の世界には闘争や不和がありますが、祈りの世界には闘争も不和もないのです。
    *
 折りとは自己の本体に合体するためのものであります。
・・・・・
10月2日  運命は自分がつくる

 運命とはいのちを運ぶということであります。
 いのちを運ぶのは自分自身なのです。自分自身は自分自身のいのちそのものなのです。自分 のいのちを運ぶのに、他人(ひと)事のように、運命だから仕方がないとか、運命が悪いのさ、などといっているのは、自己の無知から起る考えなのです。
 いのちは神からきたものです。そして肉体にあって自己という一個の存在となっております。 自己とは、肉体内に限定されたいのちの力を、運んでいる者ということになります。
    *
 運命とはあくまで自己のものであり、自己がつくったものであり、自己そのものの全責任で あって、突然に他からやってきたり、めぐりあわせ的にくるものではないのです。
・・・・・
12月31日  宗教に把われるな

 仏教に入って戒律に把われ、日蓮宗に入って折伏(しゃくぶく)に把われ、キリスト教に入って、罪の子に 把われ、因縁因果説の宗教に入って因縁因果説に把われ、精神分析的宗教に入って心の法則に 把われ、光明思想に入って神の子に把われる。
 宗教の道に入ってこんなことではだめであります。宗教の道の最大眼目は、無為にして為すということであり、空即是色ということであります。それが宗教の一つの方法論に把われてしまって、肝心の自由自在心になる方向を見失わせてしまうようでは、どうしようもありません。物質欲や権力欲と違うようにみえますが、やはり三界的生き方なのです。一番よい方法は、すべての現象面の想念や出来事を消えてゆく姿という言葉で、出来事や方法論に把われぬようにしてゆくことなのであります。



著者紹介

五井昌久 (ごい まさひさ)
大正5年東京に生まる。昭和24年神我一体を経験し、覚者となる。白光真宏会を主宰。祈りによる世界平和運動を提唱して、国内国外に共鳴者多数。昭和55年8月帰神(逝去)さる。
さらに詳しく



序文より
善い本というものも、その一冊の中に、読む人読む人によって感銘を受けるところが違っていたり、わづか一行だけが終生心に残っていたりすることがある。
 どんな大作でも、読み終って 感動させるのは、その全体からひびいてくる、著者の心のひびきである。何処の個所がよい、ということは勿論あるが、全体の善さがその一個所に集中して感じられてくることは事実である。
そういう意味で、この日々の祈りは、編集者が自らの日々の祈りの中で、私の今日まで書い てきた文章のエキスとなる部分を、各種の本からぬき出して一冊に纏めたもので、ある種の本の一冊ではそう重厚さが感じられなかったのに、各種の本からエキスだけ集めてくると、流石に心にひびいてくる力が強い、 とは、ある読者の話である。
また忙しくて、一冊を通して読むことのできぬ人でも、ちょっと開いた一頁が、必ずその人の心にひびいてくる何か生きる道というものを感じさせる。そういう本にこの日々の祈りはなっている。

心に迷いが生じた時、悲しい時、腹立たしい時、何かの道を決定しようという時、そんな時、無心にぱっとどこの頁でも開いてごらんなさい。きっとその人の心は明るくなり、強い力が、心の底から湧き上がってくるに違いない。この本はそういう本なのである。

人間はこの肉体だけが自分ではない。肉体の奥に幾体もの体を纏っている者であり、その奥 の奥は神のみ心そのものでもあるのだ。私はその奥の奥の心を本心と呼んでいる。仏教でいえば、仏性というところである。その本心が開発されることによって、その人間は見事にこの世の苦楽を超越し、キリストとなり、真人となり得るのだ。
 あなたが、この本を手にしてただの一頁を開いた時、あなたは本心開発の道に踏みこみ、キリスト、仏陀の道をあなたの未来に開かせ得る幸運をつかんだことになるのだ。私はそれを堅 く信じて疑わない、何故ならば、これらの文章は、人間の私が書いたものであるが、そのまま神のみ心が現われている文章であるからだ。
           著者識

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