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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 老子講義

第六講: 上善は水の若(ごと)し・・・道徳経第八章
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そこで信という言葉は、真実の人(ひと)の言葉、言(ことば)とは声に出る言葉だけではなく、想念そのものの波動(ひぴき)も言(ことば)というのです。言葉(ことば)とは言(ことば)のひびきの枝葉に及んでひぴいている時につかわれるのです。
そうした言(言葉)は、信という文字になって、信という文字が、そのまま、神霊波動そのもののひぴきとして、真実の人(ひと)の言(ことば)という意味をもつのです。そういうわけで信という言葉は実に大事な言葉となるのです。老子はこの信をますます善いもの、善い言葉として、人々に伝えなければならぬと云っているのであります。
政は善く治(ち)。政(まつりごと)は善く治めなければならないということは当然なことですが、善く治めるということは、老子在世の昔から、今日に至るまで、実にむずかしいことなのでありまして、後には名政治家と称えられている人でも、その人の在職中には、後に挙がった名声程に、その時代の人に賞め称えられたわけではないようです。
善く治まる政(まつりごと)を行なう為には、為政者に私心が少しでもあってはならないのだし、常に天の声、神のみ心と一つになって行なわなければならないのです。老子の云う、道に沿った行為のできる人でないと、真実の政治は行なえないのです。
現在の世界中の政治家にこのことを当てはめてみて、当てはまる人が、果して何人あるでありましょうか。私心を全く去って、神のみ心そのものの政治を行なっていれば、その国は平和になり、栄えてゆくにきまっているのですが、今日のように世界状勢が複雑になっていますと、余程の偉人であっても、世界各国の各種の想念波動に妨げられて、神のみ心のままの政治を行うことは容易なことではないのです。
個人が無我になることはまだ易しい。個人が神のみ心そのままに動くことも、精進次第ででき得ることです。しかし、神のみ心のままを、政治に実現せしめることのむずかしさは、他の何事にも比べられないむずかしさであろうと、私には思われます。
この善き政治の出現は、もう少し先の将来にゆずることに致して置きましょう。老子の言葉を実行にうつすためには、まだまだ世界中がその時機になっていないのです。


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