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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 老子講義

第六講: 上善は水の若(ごと)し・・・道徳経第八章
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事は善く能。とは、事を為すのには、その能力を善く生かして、無駄なことをしてはいけない。善く能力を生かして事に処すれば、誰でもその人を大事にしてくれる、というのです。本当に、自分で自慢たちたら自己宣伝をしないでも、その人が善く能力を生かして働いていれば、自然とその人は重く用いられるのであります。要するに常にその道、その道の実力を養って置くことが肝要である、と老子は云いたいのです。
動くは善く時。如何にこま鼠のように動いていても、その働きが時に叶わなければ、無駄働きになってしまいます。どんな有能な人でも、時を知ってその能力を現わさなければ、かえって身を危うくすることさえあるのです。
世界平和の祈りにしても、これが、法然親鸞時代だの、戦国時代に唱えたとしても、一向に効果がないばかりではなく、その主唱者は恐らくは馬鹿者扱いをされるか、邪魔者扱いされるかして、殺されかねません。
人と時と処とが三相応しないと、物事は完成されないのです。古い昔から聖者賢者が沢山出ておりながら、人類が根本的には救われていない、ということは人があっても、時と処とが、合致しないので、根本的な救われが成就しなかったわけです。
ところが、現代こそ、地球人類の運命は最後の土壇場に来ておりまして、絶体絶命の立場に追いこまれてきているのです。滅びるか全き救われの道に入るかの、両極に起たされているのです。
ですから、今こそ、人と時と処の三相応の姿が必ず成就するのです。何故なれば、神は大愛です。地球人類を最後の苦しみのまま、滅ぼし去るわけはありません。今日こそ真実の救われを地球人類は体得しなければ生きられなくなっているのです。
では、最後の、夫(そ)れ惟(ただ)争わず、故に尤(とがめ)無し。ですが、水は争わない、だからとがめがないのだ、と同じように、人も争う想いが無くなって、真に平和の心になれば、すべての善き行為がその心から生れ出でて、とがめも誤りも出てはこない、と結んでいるのです。
実際に、争う想いの少しでもある人は、真の平和論者とはいえないし、老子のこの章のような生き方はとてもでき得ないわけなのです。自己を完全な人格にする最初の出発であり、最後の心でもあるのが、平和なる心であるのです。
平和な心が根底にあって、そこからすべての善徳が生れ出でるのであって、平和の心が根底にないと、一つの善徳を積んでも、どこかでその善徳を崩してしまう、不徳をしてしまうものなのです。
ですから人は何んにも先んじて、平和な心を養わなければならないし、争う想いを無くしてしまわねばならないのです。


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