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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 老子講義

第六講: 上善は水の若(ごと)し・・・道徳経第八章
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居は善く地。というのは、その人がいる場所はすぺて善くなってゆくような、そういう人でありたい。それは丁度、水が地をうるおすように、自然の姿のままで、何処にいても、如何なる地位にあっても、人々を善化してゆく人でありたい、という意味であります。心は善く淵というのは、淵というのは深さとか永遠性とかを現わすためによく使われる言葉なのでありまして、心は深く澄み透っていて、永遠性を現わしているようでありたい、というのです。
与うるは善く仁。という仁には、日本的に云えば、無我の愛であり、寛容であり、慈しみであり、叡智の行であるというように、一つの仁という言葉の中に、あらゆる美徳を含めてあるのです。完全なる人格を表現するために、この仁という言葉が使われているのです。
ですから、そうした仁の心で人々に接したいものだ、というのが、この与うるは善く仁というわけです。
言は善く信とは、言葉は虚言であってはならない、常に信用の置ける真実の言葉でなければいけない。あの人の言葉には嘘いつわりがない。あの人の言葉なら絶対大丈夫だといわれるような真のものであり、道に叶った言葉でなければいけない、というのです。
信ということばは、にんべんに言と書かれてありますように、人の言そのものをいうのです、人(ひと)いうのは、霊(ひ)の止まるところ、日(光)の止まるところという言葉で、神霊波動のそこに止まって働く者をいうのです。現在一般に人間といわれている者と真実の人といわれている者とは、同じことに使われていますが、実は厳密にいうと全く同じ者ではないのです。
人(ひと)とは、神霊波動そのものが、そのまま働いている姿につけられた言葉であり、人間とは、神霊波動(光)と業想念波動(迷)との混合された者につけられた名称なのであります。ですから、人間は次第に浄められて真実の人となってゆくわけなのです。
そこで釈尊などは、天人、人間、阿修羅(あしゅら)などという人(ひと)の境界にそれぞれの名称をつけているのであります。


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