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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 聖書講義

太初(はじめ)に言(ことぱ)あり
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実に言(ことば)というものは大事なものでありまして、人びとは常に言(ことば)の根元に遡(さかのほ)って言葉を使うようにしなければならないのです。光ある言葉、生命ある言葉を日常茶飯事にでも使えるようにならなければ、神のみ心を地に現わすことができません。
私はこの言(ことば)と言葉をはっきり二つに分けて説いておりまして、言(ことば)のほうは光の波動(ひびき)、言葉のほうを想念波動と説くのですが、言葉にしても想念波動にしても、その根元は、言(ことば)であり、光であるのですから、純粋な言(ことば)とし、汚れなき光の波動とするためには、言葉や想念波動のでてくる頭脳や心を空(から)っぽにする必要があるのです。いわゆる小智才覚を捨てる、ということです。
ところがなかなか、この小智才覚を捨てることができません。頭脳や心を空っぽにすることはこの世的な頭が良ければ良いほどできにくいことなのです。
そこでそのためにこそ、想念を神のみ心に向けきってしまう祈り心が必要になってくるのです。人間の本来性である、光の中に、言(ことば)の中に、生命の本源の中に飛びこんでゆく祈りが大事な行事になってくるのです。
天のみ心が地に現われますように、という祈りでもいい、世界平和の祈りの天命が完(まっと)うされますようにでもいい、愛深い私にならしめ給えでもいい、み心のままにならしめ給えでもいい。とにかく、この世に渦巻いている想念波動圏から、超越してしまう方法をとることが必要なのです。超越してしまう先は、いわずと知れた神のみ心の中であるわけです。
「光は暗黒(やみ)に照る。而(しか)して暗黒(やみ)は悟らざりき」とあるように、人間一人一人の中に光は照り輝いているのですけれど、肉体人間の中にある暗黒(やみ)、つまり暗黒想念は、自分の中に、神の光が輝いていることを悟らないのです。愚かな人たちは、生命そのものである神の存在を否定してしまいさえするのです。神の存在を認めている人たちでも、少しくこの世の中に苦しいことがありますと、自己の運命を駄目なものと悲観してしまったり、わずかの間祈っただけで、運命が自分の思うようにならないと、神の愛に疑いをもったり、自虐の気持に陥(おちい)ったりして、暗い想いになってしまうのです。
神が光であり、愛であって、神の言(ことば)によらないでは何一つ生れてこないのである、という真理をよくよく思いみるとよいのです。光であるということは、暗黒(やみ)が無いということです。もし暗黒があったとしたら、それは光のあたっていないところ、つまり暗黒が光の照っているのを悟らないためであるのです。


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