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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 聖書講義

序文、(第一巻)
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聖書に関する書物は非常に多いのに、何故私が敢えて聖書講義を書く気になったかというと、今日までの聖書ものが、大方クリスチャンの書いたものや、聖書学者の書いたものが多く、どうもキリスト教におもねった形のものが多いのが気になっていたからである。おもねっていなくとも、どうしても身贔屓(みびいき)の嫌いがあって、一般読者の聞きたいようなところには、その解説が触れていないのである。
私のこの聖書講義で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書を中心にして書いているのは、イエス自身の言葉や行いが、そのままこちらに伝わってくるには、この四福音書が一番よいと思ったからで、パウロやペテロなどの手紙などでは、その著者の想念が多く加わってきて、イエスの真の息吹きから遠のいている感じがするのである。
それでもキリストの言葉としてはおかしいような言葉が、なんの解説もなされず書かれていたりする部分もあり、奇蹟のことや神霊の世界のことには、わざと触れずにいたりする向きも大分あったりする。私はこういう部分を、私の霊覚ではっきりと解説することにしたので、今までわからずに読み過したような個所が、鮮明にわかってきたりするところがあって、クリスチャンにとっても参考になり、キリスト教にあまり興味がなかったような人には、かえって非常に興味をおぽえさせるようなところもある。
それに私は特にイエスと仏陀、キリスト教と仏教をところどころで比較して書くことに努め、宗教の奥義というものは、何宗でも終局は同じなのだということもわかっていただきたいと願った。
なんにしても、キリスト教の人が贔屓(ひいき)のひき倒しになりがちなので、その点そういうマイナスのないように、霊的に背後から種々と教わりながら書いていった。その意味では、前作、老子講義と同じような流れをもっている。    それから、口語体の聖書をつかわずに、昔風の文語体の言葉をなぜ使用したかというと、文語体のもつ高いひびきのほうが、イエス・キリストの言葉としてのひき締った力強さを感じるし、言葉の味が心に沁みわたってくるので、文語体の聖書をつかったのである。心を伝えるには文体というものが非常に大事なものであることは、老子講義と同様なのである。


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