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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 神と人間

七、 私の祈念法(きねんほう)
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私は現在、毎日多数の人びとの相談に応じて寧日(ねいじつ)ない有様であるが、ほとんど疲れが残ることはない。業因(ごういん)の深い人と対座(たいざ)する瞬間、相手の業因が、電波の如く、私の肉体身に感応(かんのう)してくるのだが、それもほんの瞬間に消えて、疲れがそのまま肉体に残っているようなことはすくない。
私の肉体の頭脳は常に空(くう)なのである。私は肉体の頭脳でものを考え出すことはない。必要に応じて必要を充たす智慧(ちえ)が、私の本体から自然と肉体に伝わってくるのである。
私は霊媒(れいばい)ではないから、霊動したり、霊言したりはしない。普通の肉体人間となんら変わらぬ平々凡々たる人間に見えるし、常識を一歩も越えぬ生活をし、行動をしている。しかし、根本的にはまるで違っている。
それは私の本体が光であることを体験として知っていることであり、私の言動が、すべて神(本体)から直接に支配されていることをはっきり認識しているからである。
普通、人間は、常になんらかの想念が頭脳を駆け巡っているのだが、私の肉体脳髄を駆け巡る想念(そうねん)は何もない。
私はかつて、一切の想念を断絶する練習を私の守護神から強制的にやらされたのである。
それは、普通の座禅や、精神統一の類ではなく、二十四時間ぶっつづけの練習なのである。(このことについては、自叙伝『天と地をつなぐ者』を参照されたい)苦しいといえば、これほど苦しいことはない。ものを想(おも)わぬこと、念を停止すること、即ち、空(くう)になる練習なのである。寝ても起きても、歩行していても、全時間、すべてこの練習なのである。この期間約三ヵ月、自我を全部滅却(めっきゃく)して、神我に変えたのである。
霊媒ならば、肉体を、その支配霊に他動的に委(ゆだ)ねて、自己の我は睡っていればよいのだが、私の場合は、自己意志で、自己の我を消滅し去ろうとするのである。いいかえれば、因縁(いんねん)の流動を超えて、自由自在になるための練習なのである。
原因結果、原因結果と果(はて)しなく輪廻(りんね)する業因を超えるためには、その業因をつかんでしまってはいけない。いかなる業因縁(ごういんねん)が果(か)として現われようとも、果として現われれば、その因縁はそのまま消えるのだから、消えてゆくという念と、これで善(よ)くなる、という善念だけ出せば、運命はその時、新しい善因(ぜんいん)を記録する。そうした方法を根こんよくつづけて行けば、その人の潜在意識は、しだいに善因縁に変化してゆき、顕在意識の善なる想念(おもい)と正しく交流して、その人の運命は好転する。
私は人びとに、そのような方法を教え、練習させながら、私自体は、私の想念(おもい)をすっかり停止して、相手の業因縁を、私自体の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想(もくそう)をする。これは苦しい想念停止の練習によって、到達し得た空即実相(くうそくじっそう)の黙想なのである。
相手と私は向かい合って座(すわ)る。私の心には相手の分霊の光と、その分霊が過去から放ちつづけている想念の波が種々なる波長をもって、幽体を流れているのが観(かん)じられる。即ち、因縁の波を観じるのである。私は、すでに光体(こうたい)になっている私の中に相手の因縁の波が吸いこまれて、しだいに浄まってゆくのを感じる。ちょうど吸い取り紙のようなもので、吸い取り紙は吸い取ったインキを消すことができぬが、私は、その人との対座(たいざ)を止めると、ほとんど同時に、その人の因縁の汚れを消滅できる。私に来ている本源の光が汚れを消滅するのである。
私と対座した人は、なんだかわからぬが、体が軽くなり、清々(すがすが)しくなる、と異口同音にいう。これはその人たちの業因縁が浄められたことによるもので、いかなる言葉の説教よりも、はるかに早くその人たちを救いの道に導くことになるのである。


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